どーも、最近よく目が霞んで、この間血圧測ったら高くなってて、身体のあちこちに異常が出始めてて、「あれ?これ、私、死期が近づいてるんじゃね?」と思ったアラサーBobsonです。
健康は大事ですね。ちょっと色々改めていきます。
ツイッターで宣言しましたが、20代最後のダイエットと題してガチで頑張ります。
9/3はドラえもんの誕生日です。
藤子・F・不二雄さんは「天才」だと思います。
藤子不二雄Aさんも「天才」と言っています。
なりたいなぁ。「天才」。
さて、たまには真面目に自分語りでもしちゃおうかなぁーなんて思います。
真面目な話は恥ずかしいので、あまりしたくないとも思いつつ、その人の人となりを知るのには適してます。
これを読んでくれた方が少しでも私を知ってくれたらなぁみたいな思いで書いてみます。
8月に公演が終わって現在インプット期間的な感じなんですが、色々考えていたんです。
「言葉」とか「物語」とか「大衆・観客」とかについて色々、それはもう色々。
煮詰まったら原点回帰。
初心に戻ることも必要かなーと。
色んなものに触れながらも、自分の過去を思い返してたりしました。
それで最近、自分の中で忘却の彼方に飛ばされていた出来事を思い出したんです。
私はよく「理屈っぽい」とか「論理的」だとか「計算でもモノを作ってる」とか言われます。
(し、自分でも言うことがあります。)
右脳人間、左脳人間というのが本当にあるならば、左脳派になるでしょう。
左脳派っていうのは、
・論理的で冷静 ・筋道立てて考える ・客観的な分析が得意 ・デジタル派 ・計算が得意 ・几帳面
みたいな特徴があると言います。
右脳派っていうのは、
・感情表現が豊か ・感性がするどい芸術家 ・人の気持ちを汲み取れる ・空間認知に長けている ・アナログ派 ・暗記が得意
みたいな特徴があると言われます。
演劇に限らず、芸事で大成する人は右脳派だなんて言われたりもします。
右脳派が持つ「感性」を左脳派が手に入れるにはどうすればいいのでしょうか。
調べると多くのものに触れて勉強しろとか出てきます。
でも勉強すると知識が増えて、より分析したりしてるような気もして。。。
では逆に左脳派が右脳派の持つ「論理」を手に入れるには、と調べると
同じく多くのものに触れて勉強しろとか出てきます。
あてにならん。
そもそも右脳派左脳派なんて話があてにならん。
まあどちらにせよ勉強は大切だよってことだけです。
でね、考えたんです。
なんで私はこんなに理屈っぽいのか? 論理的に考えがちなのか?
で、思い出したんです。
今の私を知る人には想像できないかもしれませんが、私小さい頃、結構妄想の激しい子だったんです。
妖怪とか好きで、架空の妖怪とか絵に書いて、なんならその妖怪が現実世界に見えていました。
いや、霊感とかはないので、見えているつもりになっていたというのが正しいかもしれません。
近所にちょっとした草原や森みたいなところがあったのですが、そこにそいつらは生息していて、見つけては追っかけまわしていました。
しかも私はそれに近所の友達まで巻き込んで、「あ、あそこにいたぞー」とか言ってみんなを引き連れて追っかけまわしてたんです。
周りには見えてないわけですから、そして周りの方が年上でしたから、「こいつやばいやつ」と思われていたかもしれません。付き合って遊んでくれてたんですね。
小学校に入ったあたりでも私には、そいつらが見えているつもりでしたし、超常現象的なことを信じてました。 (特命リサーチ200Xとか好きでした。)
でもそこで、それを否定される日が来るわけです。
「そんなものはいない」と。
ちゃんとした記憶はないんですが、馬鹿にされたのかな?
だからそういうものはダサいと思うようになりました。
それからというもの、妄想もなくなり、そいつらは見えなくなりました。
トトロが大人には見えない的なことなのかもしれません。
学校の勉強が始まったこともあり、そこから私は、「理解できるもの」に傾倒するようになりました。
学校の勉強には答えがあります。
私は何にでも答えを求めるようになっていきました。
「理解できるもの」が好きでした。
だから「理解できるもの」を増やそうとしていました。
そしてそれは今も続いています。
私は「理解できないもの」が嫌いなんです。
「なんか良くない?」って言われると「なんか」ってなんだよーって思います。
「なんか」を解明したくなります。質問攻めです。
そして「なんか」を理解したつもりになった時に私は初めて、「なるほど。わかるー。」となるのです。
恋愛もそうです。
「なぜ」好きなのかを考えます。
顔が好みなのか、性格がどうだからなのか、価値観がどうだからなのか、この人がこう育ってきたからなのか、自分との接し方がこうだからなのか。みたいな。
面倒くさいですね。
もちろん世の中に「理屈じゃない」ことがあるのはわかっているんです。
でも私は理解したい。そうして生きてきたのですもの。
初めて演劇を見た時、私は言葉にできない感動を覚えました。
それは、映画では得られないものだと思っています。
これは私の個人的な考えで反論もあるとは思うのですが、
映画の良さっていうのは説明ができると思うのです。
脚本の構造だとかカメラワークだとか、開始何分でこれが起こるからこうだとか。
映画の感動は理解できるのです。
(誤解のないように言っておきますが、私は映画が好きですし、私の知識だけでは説明できないこともあると思っています。)
でも演劇の感動が私には理解できなかった。
あえて言うならば人が目の前にいるから、「生」だからこその感動だとは思うのですが、
「生」だからなんだとも思うのです。
かといってビデオで見てしまうとその演劇にその感動がなくなります。
なんでそこに人がいるだけでこんなにも違うのか。
そういう第六感的なものが演劇にはあって、それが「理解できない」。
でも私は感動している。
初めて見たのはプロの劇団さんではなかった気がするから、演技だって拙かったかもしれない。お話だって、演出だって、映画には劣るかもしれない。
でもそこには映画以上の感動があったんです。
「理解できないもの」に感動した私はこの「理解できない」『演劇』というものを理解したいと思ったのです。
高校生になる時、演劇部に入ろうと考えていました。
でも入りませんでした。サッカー部に入りました。
そのことに関して後悔はありません。
なぜ入らなかったか。
演劇が「ダサい」ものとされていたからです。
言い方が悪いですが、高校の演劇部は冴えない女子の吹き溜まりみたいな感じでした。
そもそもやってることも面白くないし、入っても3年間を棒にふってしまう気しかしませんでした。演劇の強い高校なら違ったのかもしれません。
そして私は3年間演劇を見ることもなく高校時代を終えます。
進学校だったこともあり、ちゃんと勉強してました。
高1から受験勉強してました。
将来は経営コンサルタントになる気でいました。
色んなことを理解してやろうとしていました。
そうして大学に進み、どのサークルに入るか悩んでいる時に、候補の一つという気持ちで
久々に見た先輩たちの演劇は、「やっぱり私はこれに挑戦したい。理解したい。」と思わせるには十分すぎるものでした。
(ちなみに演目はTEAM NACSの「COMPOSER ~響き続ける旋律の調べ~」です。
ヤスケンさんの役だったモーツァルト。あんなことがしてみたくてしてみたくてたまらなかったです。)
最初は役者をやっていました。
所謂イロモノ役者でした。
そのうち脚本・演出に興味が出てきました。
演劇を理解するにはそっち側へ行かなければいけないと感じたのかもしれません。
運よくありがたいことに仲間たちが私のオリジナル脚本での初演出を受け入れてくれたので、
今もこうして脚本・演出をやり続けています。
満足できた作品はありません。
まだまだできる気がします。
理解には程遠いです。
完全に演劇の沼にハマってしまったのかもしれません。
私は演劇が大好きで大嫌いです。
何度手に掬っても、私の手からこぼれ落ちていきます。
一生「理解」には辿り着けないかもしれません。
でも、今私は、この道を少しでも前に進んでいきたいなと思っています。
精進します。
人の「感性」を羨んでも仕方ありません。
私は私のやり方で生きていきます。
山里亮太さんではないですが、「天才はあきらめた」!
その道の先には蒼井優さんとの結婚があるのだから!笑
……すいません、最後の最後でふざけてしまいました。
以上です。